ボランティアはこのままでいいのか?

ニュースを見ていたら、ボランティア活動が紹介されていました。東日本大震災による大きな被害を受けた地域で、多数のボランティアが復興活動をしているとのことです。何の報酬も得られないというのに、一生懸命に活動している方々が多数いるということは、素晴らしいことだと思います。

ところで、ボランティアは自己完結型でなければならないと言われています。すなわち、衣食住すべてにおいてボランティア側が自分で用意しなければならず、現地に負担をかけてはならないというのです。確かに、救援に行った人たちのせいで被災地の人々に物資が行き渡らない、居住場所がなくなる、というのでは、本末転倒です。

しかし、これを徹底すると、ボランティアの希望者が制限されてしまうことになり、かえって復興の妨げになるのではないかという気がしてなりません。かといって、ボランティアを求める側に負担を求めるのでは、今度はボランティアの精神から外れることになってしまうので、これまた妥当とはいえません。

おそらく、事案や規模によるのだと思います。万博やオリンピックなど、いろいろな大規模イベントにおいてもボランティアは募集されますが、これはやることも大体決まっており、また、都市機能が正常に動いている中で行われるものですから、すべてをボランティア自身に求めても問題ないといえます。また、イベント期間が限られており、活動時間も定まっていることから、ある程度はボランティア側に負担がのしかかっても問題ないでしょう。しかし、大地震などの災害においては、何をすればよいか明確に定まっているわけでなく、都市機能は壊滅的被害を受けており、活動期間は青天井です。このような状況においてもなお、ボランティアにすべてを負担させてよいものでしょうか。

個人的には、複数階層のボランティアが必要だと感じています。力仕事など、直接的な活動をするボランティア、その食事や休憩場所などを提供する後方支援のボランティア、さらにその補給ルートを確保するボランティア、などなど。これらが一体として活動することにより、強力な行動力を提供できるのではないかと思います。聞けば、いま被災地で活動しているボランティアは、車の中で休み、パンやおにぎり程度の食料しかないといいます。力仕事をし、専門的技能を提供する方々がそれでは、十二分に力を発揮することなど望めません。都市機能が完全な状態であればどうにでもなるのでしょうが、被災地は都市機能が失われている状態にあります。そんな中で、ボランティアに自分自身の完全なケアを求めることなど、到底望めないのではないでしょうか。また、それを備えた人だけが活動できるとするのでは、いったいどれだけの人が活動できるのでしょう。

ボランティアは無償の精神を旨とするものだから、そこに金銭など対価を関わらせるのは御法度、触れてはいけない、というタブー的なものがあるように思います。わたしはそれは間違っており、たとえボランティアであっても、需要と供給のバランスを図らなければ、足りない部分は個人の意思で補うしかなく、余計な力をとられることになり機能不全を起こしてしまうと思っています。無駄を省き、投入したエネルギーをできるだけ多く目的とする活動に反映させること、これは当然のことではないでしょうか。

日本赤十字は被災地への支援を行う団体ですが、ボランティアの統括という事業も行うようにすればいいのにと思います。個人が単独でどうにかできる規模のものではないのですから、受け入れ窓口を一本化し、効率的に行動すべきだと思うのですけれどねえ。

そのような団体をボランティアの精神で立ち上げる人が出てくれば、それが最も望ましいことではありますが…。

選挙カーの騒音

今週末、市議会議員と県議会議員の選挙が行われます。そんなわけで、街中を多数の選挙カーが走り回っております。

それ自体は別に構わないのですが、どの選挙カーも「選挙の際には○○△△の名前を書いてください!」「□□××をよろしくお願いします!」とか、そんな内容ばかり叫んでいて、どうにも中身を感じられません。こちらは名前を知りたいのではなく(でも名前を知らないと誰が言ってるのか分からないか…)、どんな政策なのか、他の人とどこが違うのか、そういうところを知りたいのですけれどねえ。中には、「~を目指します」などと言っているのもあって、そういうところは比較的好感を持てるのですが。

そもそも、選挙カーという、移動しながら言論を伝えるというデバイスに多くを求めてはいけないのかもしれません。だとすると、そんなデバイスを使って言論をすること自体、意味に乏しいものなのではないかという気になってきます。それよりは、ビラ配りなどする方が、多量の情報を伝えることができるので実りあるものであるように感じます。

会社では、「いかにA4一枚で伝えるかなんだ」と教わりました。限られた紙面、限られた分量で、いかに自分の考えを伝えるか。政治家には求められる能力だと思います。民主主義は多数決が基本ですから、考えついた政策を説得力をもって他人に説明しなければならないのですからね。

しかも、この時期になって思い出したかのように頑張って走り始める選挙カー、そのような方々に投票しようとは思いません。

先日、選挙立候補者のポスター一覧を見かけることができたのですが、「無駄な選挙カーは使いません!」と書いている人がいて、好感を持てました。ただ、民主党推薦なんですよね…。民主に与することは国益に反する気がしてならないので、残念ながら、別の候補に投票することになります。残念。

統一地方選挙

わたしが住んでいるところでも、今週末に地方議会の選挙が行われます。そのため、どの候補者に投票するか、決めなければなりません(どこですか、選挙に行かないとか言っているバカ者は)。

が、困るのは、資料に乏しいこと。

千葉県千葉市中央区に住んでいるのですが、付近には候補者一覧がありません。あったとしても、政策なんか書かれていないに等しいので、もともと参考にはならないのですが。イメージで選ぶのは、ちょっとオカシイ人たちがすることです。まず最初に検討すべきは政策であり、この市を、県を、どういう方向に持っていきたいのか、です。

街宣車も役に立ちません。この数日、ひっきりなしに「~をよろしくおねがいいたします」という声を聞きましたが、「わたしは~を~します」という内容だったのは一件しかありませんでした。こっちが聞きたいのは、名前じゃなくて政策なんですが。

極めつけはホームページ。Google様でさえ見つけることが難しいという状況です。候補者氏名一覧は行政のホームページで見つけたのですが、それぞれの候補者のホームページ一覧などはありません。ビラ配りが許されるのならば、ホームページの開設、リンク紹介も問題ないのでは? 自発的にリンクを踏まない限り主張を見ることができないのですから、ビラ配りよりよっぽど合目的的な気がするのですけれど。

こんな状況で、県政を良くします、分かりやすい政治を目指します、と言っているのですから、失笑ものです。かといって、自分が出馬するわけにもいきませんしねえ。

いろいろな思惑が渦巻いて、あるべき姿になっていないのかもしれません。どうすれば正すことができるのか、それとも正してもやっぱり失望するしかないのか。考えると気分が滅入ってしまいます。はあ。

震災について思うこと

東北関東大震災では、まさに甚大というべき被害が生じました。いまもなお苦しんでいる被災者の方々には、かける言葉もありません。辛いとは思いますが、毎日を生き延びていっていただきたいと願うばかりです。

今回の震災は、人間の防災対策を嘲笑うかのような規模だったので、対策が不十分だったとかいうことはできないでしょう。場所によっては、この高台に逃げれば大丈夫…と思っていたら、それを上回る津波が押し寄せて多数の犠牲者を出したというところもあると聞きます。天災に想定外はない、とはいいますが、まさか高さ100メートルの防波堤を築くわけにもいきません。いまの技術では防ぐことのできない、大自然の脅威であったといえます。

しかし、そのような事情があるとしても、人災も多かったことは否めません。

どうも、最近の日本は、結果を求めるあまり、安全性などの点について軽視しているように感じられました。悪名高き事業仕分けは、その一例でしょう。十分に知識を持たない人たちが、コストだけを見て、その価値を決めて仕分けていく。防災対策費用も削減されていたと聞きます。実際にはトンデモな事業も数多く、「切るべきではないが切られてしまった」ものは少なく、切られるべきものは切られたのかもしれないのですが、「切ってはいけないが切ってしまった」ものも含まれていたと思います。そもそも、すべての切るべきものが検討に入っていたのかというところから怪しいのですが…。まあ、これはあくまで一例であって、企業活動も、結果が第一であって、安全性などは二の次としていたことが多いように思われます。ソフトウェア開発なども、納期の死守や顧客に約束した機能(それも営業など開発陣以外が勝手に約束したものである場合が多いのでしょうけれども…)が絶対であって、それ以外の要素、たとえば保守の容易さなどの観点は軽視される傾向にあるように感じています。そのようなことを考えていては商売ができない、と言われそうですが、そもそも、そのような能力しかない者がソフトウェア開発をしていいのかと疑問に思ってしまいます。重要な業務に情報処理システムは必ずといっていいほど使用されていますが、そのシステムははたして信頼できるところが作っているのでしょうか。震災後にみずほ銀行は大規模なシステムトラブルに見舞われましたが、それもこのような姿勢が浮き出てきたものといえないのでしょうか。

福島第一原子力発電所の炉心トラブルも、同じように感じています。つい先ほどテレビのニュースで放映されていましたが、ロシアの原子力作業員によればチェルノブイリの原発事故における教訓が生かされていなかったということです。今さら言っても始まらない、と思いましたが、実は福島原発は古い原子力発電所で、津波被害などの心配のないヨーロッパにおける原発の設計を参考に作られたため、津波に対する不安が存在していたとのことです。つまりは、安全性を軽視した結果、今回のような深刻な被害を引き起こしてしまったということになります。

「想定外の津波だった」という反論もあるのでしょうが、原子力発電所のような、事故が起こったときには広範囲に深刻な被害を与える施設は、「絶対安全」が基本です。津波が来ても防波堤で~メートルまでは耐えられる、とされていても、それ以上の津波が来ないという保障はありません。一般の施設であれば、そのような津波対策だけで十分かもしれませんが、原発では「ダメだった場合はこっちの方法で大丈夫」という代替策を用意しておかなければなりません。しかも、二重三重それ以上に用意しておかなければ、原発に求められる安全基準を満たしているとはいえないでしょう。もし、国がそのような基準を設定していなかったのであれば、それは国の怠慢、あるいは認識不足としかいえません。天下りなどにより癒着が生じていたのではないか、それによって基準が甘くなっていたのではないか、と疑われても仕方ないと思います。本当にそうなのかは知りませんが。

書くときりがないのでここでやめますが、何にしても、今回の震災は、現代社会は万一の事態に対しての備えを軽視していたのではないか、という思いを強いものとしました。堤防などの構造部分(ハードウェア)は優秀なのですが、それを運用するシステム(ソフトウェア)がどうにも貧弱で、ハードウェアが最初にそびえる最強の、そして最終の砦になってしまっているように思います。この砦が突破されると、あとはもはや復旧不能になってしまうのです。以前から、日本はこの部分が苦手だったように思います。はたして、次に起こる大災害にはどう対処すればよいのでしょうか。残念ながらわたしは具体的な知見を有していないので、研究者の方々がよい知恵を出し、政治家の方々が私欲を棄ててそれらを取り入れ、日本に住む人々すべてが純粋な心で協力してくれればと願うばかりです。

GROWキャノン

GROWキャノン」は、ちょっと変わったパズルゲーム。知っている方も多いとは思いますが…。

目覚まし時計を叩き壊して眠る人。どうやら起きなければならないようで、プレイヤーが用意したのは一つの大砲。といっても、その砲弾を直接に叩き込むわけではありません。いくつかの場所に砲弾を撃ち込むことができ、それぞれ異なる現象が起きます。また、他の場所の状態によっては、同じところに砲弾を撃ち込んでも結果が変わったりします。

うまい撃ち込み方を見つけて、規定の砲弾数で眠る人を起こしてあげましょう。相手はなかなか…いや、とんでもなくしぶといですので、そう簡単にはクリアできません。

なぜ計画停電で家庭が忍耐を強いられるのか

もはや語る必要もないと思われる、東北関東大震災。この影響で、東京電力のサービス提供地域では計画停電が実施されています。いちおう概要を説明すると、東京電力管内をいくつかのグループに分け、それぞれのグループについて特定の時間帯で停電を行うというものです。この計画停電により、100万を超える世帯において一時的な停電が発生しています。

政府は計画停電の実施について国民に説明をし、協力を求めました。今回の震災は史上最大規模のものでしたから、この要請は受け容れやすいものだったと思われます。国民(主に関東)は、この国難を乗り切るため、何かの協力ができればと考えて計画停電を受け容れたに違いありません。

国民が一丸となって国難に立ち向かう。実に美しい光景であり、それを実行できる日本国民は素晴らしい精神を持っていると思います。

しかし、です。

計画停電が実施されてみると、「ハテナ?」と首をひねってしまうことばかりです。まず、①東京23区の大部分は停電の対象外となっていること。また、②グループ内でも停電になるところとならないところが分かれていること。さらに、③電車など公共機関や、被災地まで停電になってしまったこと。

③は東京電力の事務ミスでしょう。日頃から何も備えていなかったということが露呈してしまいました。いまこれを責めても何にもなりませんが、東京電力の危機管理体制の甘さには呆れるばかりです。民間とはいえ、公共的事業を請け負っているという自覚が足りないのではないでしょうか。こういうものは、利益に直接的に結びつくものではありませんから、トップが意識しなければ達成できません。現在の東京電力経営陣が、どれだけ利己主義に走っていたかというのが分かるというものです。今回の事態が落ち着いたら、株主代表訴訟で全責任を追及し、破産に至らせるのが相応しい末路だと思いますね。

①②については、おそらく、電力が止まってしまうと市民生活に影響が大きすぎる地域もあるという考慮があるのでしょう。特に、東京23区(の大半)で停電すると、企業活動が完全にストップしてしまうことになりかねず、とてつもない被害が生じてしまいます。計画停電は特定の時間帯に「停電するかもしれない」という制度です。このような不確定な状況において、事業を継続することは無理というものです。停電を前提に活動すればいいではないか、と反論する人もいるでしょうが、実際に自分でやってみてください。ちょっと考えただけで、不確定な事象を前提に事業活動を行うことは難しく、結局は事業中断を余儀なくされるということが分かると思います。

さて、このような計画停電が必要とされるのは、電力の供給と需要のバランスが崩れており、需要過多(供給不足)になっているためです。すぐに供給を増やすことはできませんが、需要を減らすことはできます。そこで、家庭の電力需要を減らしてもらおうということになり、それでも足りなければ強制的に供給を切って需要をゼロにしてしまおうということになります。

ところで、一般論として、このような削減措置を採るとき、どのような方向性を採るべきでしょうか。これは実際の削減措置から考える、いわば戦術的な側面と、効率性から考える、いわば戦略的な側面から検討すればよいものと思います。最初の方向性は、削減しやすいところから削減するというものです。これを今回の計画停電にあてはめると、家庭と企業では、おそらく家庭の方が節電をしやすいのだろうと思います。家庭はせいぜい数人単位の共同体ですから、意思の統一が図りやすく、確実な節電が期待できます。次の方向性は、需要の大半を占めているところから削減するというものです。占める割合の大きなところが(足並み揃えて)需要を削減すれば、その効果はとても大きなものとなります。これら二つの方向性は、実際の場面は千差万別ですので、どちらかとればよいというわけではなく、需要の構造など諸般の事情を総合的に考慮して、それぞれの事情に応じて個別的・具体的に判断しなければならないものと考えられます。

電力需要の構造を考えると、東京電力全体の供給に対して、家庭など小口は四分の一にも満たない程度であるのに対し、電灯や大口需要は半分以上を占めています(参照:数表でみる東京電力)。これを考えると、削減しやすいという家庭において節電をしても、劇的な効果はあがらないということになります。また、大口需要において節電をすれば、小口は従来どおりの需要を維持できるということになります。

これを踏まえると、はたして、①②が生じてしまったのは仕方ないと割り切れることなのか、疑問が生じます。企業などの大口需要において節電を徹底すれば、家庭などの小口需要については制限する必要がなく、計画停電をする必要はなかったのではないかとも考えられるのです。もっとも、そのような措置が「事務的」「物理的」にできるのかは関係者でもないため分かりませんので、もしかすると、そもそもできなかったのかもしれません。しかし、政府の要請に応じて電車については電力供給を確保したことから考えると、きめ細かい対応も不可能ではなく、それを行わないのは単なる怠慢であることが推測されますね。

では、はたして東京電力がそのような措置をとるのか、というと、あまり期待はできません。これも推測になってしまいますが、東京電力は収益確保のために大口需要の顧客を大切にしようと思っているのではないでしょうか。家庭のような小口はたいした収益になりませんが、とてつもない電力を使う企業は、まとまった収益をあげることができる「お得意様」です。東京電力も民間企業かつ株式会社であり、営利団体であることを考えれば、計画停電において優先度の低い小口向けに電力供給をストップすることは、「企業としては」合理的な行動であると評価できます。

しかし、忘れてはならないのは、東京電力は電力供給という、きわめて公益性の高い事業を営んでいることです。それは、電気事業法の制定からもいえることと思います。一条で、「この法律は、電気事業の運営を適正かつ合理的ならしめることによつて、電気の使用者の利益を保護し、及び電気事業の健全な発達を図るとともに、電気工作物の工事、維持及び運用を規制することによつて、公共の安全を確保し、及び環境の保全を図ることを目的とする。」と掲げ、電気利用者の利益や公共の安全も保護対象となっていることを明らかにしています(これはあくまで目的規定ですが)。すると、東京電力は、単純に営利目的で動いてはならず、利用者の利益を十分に考えなければならないということになります。はたして、大口需要者に電力を完全供給することと、いくぶんか減らして小口需要者の需要を満たすことと、どちらが優先されるべきでしょうか。確かに、経済活動が停滞し、日本経済の立ち直りが遅れることも考えられるので、大口需要者を優先すべきとも考えられます。しかし、家庭など小口需要にすべてのしわ寄せを押し付けるのが、はたして妥当なのでしょうか? 停電になると、暖房器具を使うことはできません。食事を作ることもできません。夜には手元を見ることもできません。テレビやパソコンが使えないので、情報を仕入れることもできません。高齢者や病人のいるところでは、さらに不便になるでしょう。これが数世帯ならばまだしも、100万世帯の規模に及ぶというのです。大口需要者も、すべての電力が余すところなく完全に有効に使われているというわけではないでしょう。どこかに削減の余地はあるはずです。そして、東京電力は、供給量の削減を求めることができるはずです。震災による非常事態ですので、契約違反で責められることはないでしょう。もし責められるのであれば、大口需要者は供給不足に対して抗議できるのに、小口需要者は抗議できないということになってしまい、明らかに不平等です。そのような差別は、この日本において許容できるものではないと思います(事実上ではなく法律上の話です)。

さらに言えば、政府には東京電力に対して業務改善命令などの監督権を有しています(電気事業法30条など)。もし政府が「一般家庭への電力供給を優先すべきだ」と思うのであれば、その監督権を行使して是正措置をとることができるはずです。これをやらないのは、ひとつには、東京電力の裁量に委ねて過剰な介入を避けていること、そしてもうひとつには、企業に対する配慮というものがあるのだと感じています(具体的根拠があるわけではありません…)。

政府は一民間企業である東京電力に、なるべく介入しないことが求められます(営業の自由の侵害になってしまう)。しかし、いまは非常事態です。そんな悠長なことを言っていてよい場合ではありません。菅総理は、国民が力を合わして等々言っていたと思いますが、それは国民が自主的に動いてくださいという内容だったのでしょうか。もしそうだとすれば、いまの内閣は、大震災という緊急事態にすら動かない、投げっぱなし行政だということになります。リーダーシップを発揮し、グイグイと社会を引っ張っていくべきであり、それこそが国民に求められる内閣像であり(いまさら前近代的な夜警国家を求める人はいないでしょう…)、適切な監督権を発動すべきときだと思います。

また、民主党など、いまの政権は企業団体など組織の後ろ盾が大きく、選挙ではそれらの組織票が大部分を占めているものと思われます(これも具体的データはありませんが投票率の低下をみれば無所属一般庶民の支持がどんどん少なくなっていることは推測されます)。これを前提とすれば、いまの国会議員(議院内閣制なので内閣も)は選挙のことしか考えていないらしいですから、庶民よりも企業の方を向いてしまうのは当然です。すると、東京電力に対する指導も「企業を怒らせないように、一般庶民に対処してくれ」という方向のものにならざるを得ません。企業を怒らせてしまったら、自分たちの政党基盤がなくなってしまうからです。決して表には出さないでしょうが(出たら出たで面白いことになりますねえ)、そのような制約が、ありとあらゆるところに存在していると思います。すると、計画停電を行うにしても、家庭向けを止めるのは自由にやってくれということになってしまいます。それでいいのでしょうか? わたしは、そうは思いませんが、仕方のないことだと思います。すべては、そのような議員を選んでしまった国民の責任なのです。組織票に頼らない、一般庶民の支持による議員が選出されていれば、今度は国民の信頼を失わないために、頑張って庶民寄りの指揮権を発動したことでしょう。そのときは、今度は、企業から文句が出るだけです。

以上述べたとおり、わたしは東京電力の計画停電について、家庭ばかりに忍耐を押しつけるのは間違っていることだと思います。また、内閣や国会には、企業などに対する適切な指導を行い、場合によっては強制を行うべきだと思います。その具体的方法としてもいろいろ考えられるのですが、今回はここで止めておきます(長くなって疲れましたし…)。

Firemacs

突然ですが、Firefoxの話題でも。

今回紹介するのは、「Firemacs」というアドオンです。

Firefoxのキーバインドをemacs風にしてくれます。…それだけです。Ctrlの位置を入れ替えるなどキーマップを変更する機能は持っていないので、そちらはFirefox以外のソフトウェアなどで対応するしかありません。

いろいろできるらしいのですが、わたしが使っているのはC-fやC-nなど、カーソル移動とカット&ペーストくらいです。しかし、テキストボックスに文章を打ち込んでいても新しいファイルを開こうとしたり、新しいウィンドウが開かれたりしなくなっただけでも満足です。

EightDefender’s

タワーディフェンスと呼ばれるジャンルのゲームがあります。

これは、画面外から大量の敵が攻めてくるのを、プレイヤーが配置した防御ユニットで迎え撃つというゲームです。ちなみに、最初に作られたゲームが防衛塔を建てて侵攻してくる敵を防ぐというものだったから、タワーディフェンスと呼ばれるようになったそうです。

本日紹介するのは、「EightDefender’s」というFlashのタワーディフェンスです。けっこう有名らしくて、mixiで遊べたり、モバゲーに移植されたりしているそうですね。

タワーディフェンスとアクションを組み合わせたような感じで、高度な戦略と技術が要求されます。頑張らないとコンプリートは難しい感じで、難易度は高めだと思います。

村を目指して押し寄せてくる敵を、一本道に配置した八人のユニットで倒していきます。八人は自由に配置できますが、最初に設置すると、以降は位置を変えることができません。そのため、終盤の形も念頭に置きながら配置していく必要があります。ユニットの職業を選ぶことができ、それぞれで攻撃方法や範囲が変わります。後述する経験値やお金を使ってレベルアップさせることができ、一定のレベルに達するとクラスチェンジすることになります。

敵を倒すと経験値とお金が手に入ります。また、ユニットは休憩させることができ、休憩ゲージが一杯になると、経験値が手に入ります。休憩中は一切攻撃することができないので、必要以上に休ませてしまうと、敵が防衛線を突破することになってしまいます。

敵はステージ単位で攻めてきます。ステージとステージの合間は作戦タイムになっており、ユニットのレベルアップをすることができます(ステージ中はレベルアップできない)。一定のステージでは、強力な(といっても体力が多いだけ)ボスが登場します。

先にも書きましたが、難易度が高く、適当に配置しただけでは最終ステージまで行き着けないようになっています。また、適度に休憩を取らせて経験値を稼がないと、ユニットの攻撃力が足りずにボスを撃破できないということになってしまいます。いかに効率的にユニットを配置し、職業を選び、休憩させるか、その判断が必要になります。

いくつかのゲームモードが用意されていますけれども、最初は左上のオリジナルから始めるのがいいと思います。

死刑制度の是非

マジソンズ博物館」というサイトは、ちょっと悪趣味とも思えるような記事を多数掲載しています。そういう悪趣味なことは大好きなので、よく読んでいるのですが(笑)、「殺人博物館~冤罪」というページの記事には、ちょっと考えさせられるものがありました。

1950年代、イギリスで「クレイグ&ベントレー」という殺人事件がありました。銃撃戦の末に、窃盗をしようとした者たちが警官を撃ち殺してしまったというもので、犯人のクレイグは無期拘禁、同じく犯人のベントレーは死刑になっています。

これだけなら、それも仕方ないかと思ってしまいますが、次のような事情が加わったとき、どう感じるでしょうか。

  • 実際に警官を撃ったのは、クレイグです。ベントレーの言葉(Let him have it, Chris.)に従って撃ったものとされています。
  • クレイグは16歳で、死刑にするには若すぎ、一方のベントレーは19歳で、死刑にすることができます。
  • クレイグは「町のチンピラ」で、ベントレーは先天的な障害があったものと思われ、知能は低かったといいます。
  • 当時、青少年犯罪が急増しており、何らかの対策を打つ必要がありました。
  • 二人は現場の状況を全く憶えておらず(頭に血が上っていたため)、事件当時の状況はすべて警官の供述に基づくものです。
  • 事件当時、向かいの建物には警察の狙撃手が待機していました。撃ち殺された警官は、「弾丸は額に命中して頭蓋骨を貫通」しています。クレイグが使っていた拳銃は、「おんぼろの骨董品」でした。

真相は分かりません。しかし、この結論はどうにもおかしいだろう、というのが世論だったようです。そして、この事件を契機に死刑廃止の声が高まって、死刑廃止法案が下院で可決されたといいます(本当にそうなのかは不明…インターネット上ではこれを裏付けるような別の情報源は見つけられませんでした。ベントレー事件としての記事はWikipeida上にあります)。

おそらく、青少年犯罪の増加に対処するため、青少年犯罪には厳罰をもって臨まなければならないという姿勢があったのではないでしょうか。そして、そのためならば、個人の事由や生命が脅かされてもよい、という観念があったのかもしれません。公共の利益のためならば、知恵遅れの犯罪者などはどう扱ってもよい、というような考えが存在しえないとはいえないでしょう。50年くらい前の話なので、さすがにそれは無い、と信じたいのですけれども…。

真実はともかく、死刑にされた少年は、見せしめのためのスケープゴートにされたのではないかという見方ができるわけです。そして、司法はそれを許容したと見ることができるわけです。

このような暴挙に出る司法を信頼することはできません。人権の最後の砦であるべき裁判所が、社会の利益のためにその役割を放棄してしまうことがあるのでは、国民は安心できないでしょう。いつ自分が標的にされるか分からないのです。とすれば、立法の力をもって、裁判所の力を制約するしかありません。死刑は執行されると取り返しがつきませんから、それを決定するような力を持たせることはやめましょう、というわけです。裁判所は法の適用を司る機関ですから、立法で死刑を廃止されれば、それに従わざるをえません。法を無視して、勝手に死刑判決を出すことはできません(出したとしても執行できない)。

さて、日本でも死刑廃止論が高まっていますが、このような話を見ると、「裁判所が信頼できるかどうか」という点で決まってくるような気がします(英国と日本は司法制度が違うのでそのまま対比はできませんが、基本的な理念は同じ)。検察は証拠捏造で、警察は強引な取調べで、国民の信頼を失いつつありますが(実に悲しいことです)、裁判所はそこまで国民の信頼を失っていないように思います。というか、誰も知らないのかもしれませんね、そのあたり(笑)。検察・警察・裁判所の違いを分かっていない方も多いような気がします。

裁判所がしっかりしていれば、検察や警察が強引なことをしようとしても、特に、社会秩序を守るために個人を犠牲にしようとしている場合でも、それを見抜いて公正な裁判をすることができます。これを信頼できるのであれば、死刑を廃止する必要はないと思います(刑罰として死刑がふさわしいかという点も問題になりますが、最高裁は問題ないといっていますし、個人的にも問題ないと思っています。ここは宗教論争になるので深入りしません)。一方、裁判所が検察の言いなりになったり、独自の社会秩序論を持ち出して個人の人権を蔑ろにするようなことがあるのであれば、裁判所に死刑という道具を持たせるのは不安でたまりませんから、死刑は廃止すべきでしょう。

いまのマスコミの報道などをみていると、検察や警察の問題ばかりが取り上げられており、裁判所が国民の信頼に値するものなのかどうか、という点については、あまり掘り下げられていないように思えます。これが、裁判所は検察や警察の言いなりだから考える必要もない、ということなのか、裁判所がやっていることは専門的すぎてよく分からない、ということなのか、裁判所を問題とすることは間違っている、ということなのか、わたしには分かりませんが…。