自然流水と法律

ちょくちょく、木曜日のひるおび!で放映されている八代弁護士のコーナーをチェックしています(キャッチコピーが「大人の女性たちに贈る大型情報番組」となっていて微妙な気分)。先日は、自然流水に関するトラブルが取り上げられていました。あまりメジャーではない領域ではありますが、現実には多くのトラブルが眠っている領域だと思います。

甲は、趣味の家庭菜園を自宅の庭に持っているが、隣家の乙に悩まされている。雨が降ると、一段高い場所に建っている乙の家から雨水が甲の家の敷地に流れ込み、家庭菜園が水浸しになってしまうのである。先日の台風では記録的な降水量となったため、大量の雨水が甲の家庭菜園に流れ込んだことで、すべての植物が流されたり、腐って枯れたりしてしまった。甲は、乙に対して何らかの請求をすることができるか。

このような場合、甲は、乙に対して、損害賠償を請求することはできないのが通常です。

(自然水流に対する妨害の禁止)
第二百十四条 土地の所有者は、隣地から水が自然に流れて来るのを妨げてはならない。

民法214条は、自然流水を妨げてはならないと規定しています。これはつまり、自然に水が流れてくるのであれば、それを受け入れなければならないということです。これは承水義務と言われています。自然に流れてくる水によって何らかの損害が生じたとしても、上流の人に文句を言うことはできないということになります。そのため、損害賠償を請求することができません(民法709条における過失が認められない)。

甲は、趣味の家庭菜園を自宅の庭に持っているが、隣家の乙に悩まされている。雨が降ると、乙の家の屋根から甲の家の敷地に雨水が直接流れ込み、家庭菜園が水浸しになってしまうのである。先日の台風では記録的な降水量となったため、大量の雨水が甲の家庭菜園に流れ込んだことで、すべての植物が流されたり、腐って枯れたりしてしまった。甲は、乙に対して何らかの請求をすることができるか。

このような事案ではどうなるでしょうか。先ほどの事案に基づいて考えると、この事案においても甲は乙に損害賠償を求めることができないように思えます。しかし、乙の家の屋根から直接に甲の家の敷地に雨水が流れ込んでいるという状況は、自然に水が流れてくる場合であるといってよいのでしょうか。民法は、次のような規定を置いています。

(雨水を隣地に注ぐ工作物の設置の禁止)
第二百十八条 土地の所有者は、直接に雨水を隣地に注ぐ構造の屋根その他の工作物を設けてはならない。

民法218条の存在により、この事案においては、甲は乙に対して損害賠償を請求することができます(民法709条の不法行為責任)。

甲は、趣味の家庭菜園を自宅の庭に持っているが、隣家の乙に悩まされている。雨が降ると、一段高い場所に建っている乙の家から雨水が甲の家の敷地に流れ込み、家庭菜園が水浸しになってしまうのである。先日の台風では記録的な降水量となったため、大量の雨水が甲の家庭菜園に流れ込んだことで、すべての植物が流されたり、腐って枯れたりしてしまった。甲は、乙に対して何らかの請求をすることができるか。なお、甲の土地は乙が所有しており、甲は乙から借地しているものとする。

最初の事例と同じように見えますが、甲と乙の土地が自己所有の場合ではなく、甲が乙から土地を賃貸しているような場合です。番組ではちらっと触れられているだけでしたが、個人的には「なるほど」と思ってしまう事案でした。民法は奥が深い。

さて、この場合、甲には承水義務があるので、乙には何も請求できないようにも思えます。確かに、不法行為責任を追及することはできません。しかし、この場合における甲と乙には、土地の賃貸借関係という、最初の事例にはなかった事情が存在します。このとき、甲は乙に対して、契約上の責任を追及するという、別の道が用意されているのです。

(債務不履行による損害賠償)
第四百十五条 債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。債務者の責めに帰すべき事由によって履行をすることができなくなったときも、同様とする。
(賃貸借)
第六百一条 賃貸借は、当事者の一方がある物の使用及び収益を相手方にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。

賃貸人は、目的物を賃借人に使用収益させなければなりません(その対価として賃料をもらっているわけです)。乙の家から雨水が流れ込んでくることによって家庭菜園が正常に営めないというのであれば、それは甲の土地が正常に使用できている状態にあるとはいえません。賃貸借契約の特約で家庭菜園を作ることが排除されているのならばまだしも、一般的な住宅用の土地においては、家庭菜園を作ることが容認されていると言っていいでしょう。そのため、乙は、甲に対して家庭菜園を作ることができるような状態に保たなければならないという、賃貸借契約上の義務を負っていることになります。本件では、甲の腕が悪いために植物が育たないというのではなく、大量の雨水によって流されたり腐ったりしてしまうという状態にあるのですから、乙には契約上の義務違反が認められます。そのため、民法415条に基づく損害賠償を請求することができるということになります。

死刑制度の是非

マジソンズ博物館」というサイトは、ちょっと悪趣味とも思えるような記事を多数掲載しています。そういう悪趣味なことは大好きなので、よく読んでいるのですが(笑)、「殺人博物館~冤罪」というページの記事には、ちょっと考えさせられるものがありました。

1950年代、イギリスで「クレイグ&ベントレー」という殺人事件がありました。銃撃戦の末に、窃盗をしようとした者たちが警官を撃ち殺してしまったというもので、犯人のクレイグは無期拘禁、同じく犯人のベントレーは死刑になっています。

これだけなら、それも仕方ないかと思ってしまいますが、次のような事情が加わったとき、どう感じるでしょうか。

  • 実際に警官を撃ったのは、クレイグです。ベントレーの言葉(Let him have it, Chris.)に従って撃ったものとされています。
  • クレイグは16歳で、死刑にするには若すぎ、一方のベントレーは19歳で、死刑にすることができます。
  • クレイグは「町のチンピラ」で、ベントレーは先天的な障害があったものと思われ、知能は低かったといいます。
  • 当時、青少年犯罪が急増しており、何らかの対策を打つ必要がありました。
  • 二人は現場の状況を全く憶えておらず(頭に血が上っていたため)、事件当時の状況はすべて警官の供述に基づくものです。
  • 事件当時、向かいの建物には警察の狙撃手が待機していました。撃ち殺された警官は、「弾丸は額に命中して頭蓋骨を貫通」しています。クレイグが使っていた拳銃は、「おんぼろの骨董品」でした。

真相は分かりません。しかし、この結論はどうにもおかしいだろう、というのが世論だったようです。そして、この事件を契機に死刑廃止の声が高まって、死刑廃止法案が下院で可決されたといいます(本当にそうなのかは不明…インターネット上ではこれを裏付けるような別の情報源は見つけられませんでした。ベントレー事件としての記事はWikipeida上にあります)。

おそらく、青少年犯罪の増加に対処するため、青少年犯罪には厳罰をもって臨まなければならないという姿勢があったのではないでしょうか。そして、そのためならば、個人の事由や生命が脅かされてもよい、という観念があったのかもしれません。公共の利益のためならば、知恵遅れの犯罪者などはどう扱ってもよい、というような考えが存在しえないとはいえないでしょう。50年くらい前の話なので、さすがにそれは無い、と信じたいのですけれども…。

真実はともかく、死刑にされた少年は、見せしめのためのスケープゴートにされたのではないかという見方ができるわけです。そして、司法はそれを許容したと見ることができるわけです。

このような暴挙に出る司法を信頼することはできません。人権の最後の砦であるべき裁判所が、社会の利益のためにその役割を放棄してしまうことがあるのでは、国民は安心できないでしょう。いつ自分が標的にされるか分からないのです。とすれば、立法の力をもって、裁判所の力を制約するしかありません。死刑は執行されると取り返しがつきませんから、それを決定するような力を持たせることはやめましょう、というわけです。裁判所は法の適用を司る機関ですから、立法で死刑を廃止されれば、それに従わざるをえません。法を無視して、勝手に死刑判決を出すことはできません(出したとしても執行できない)。

さて、日本でも死刑廃止論が高まっていますが、このような話を見ると、「裁判所が信頼できるかどうか」という点で決まってくるような気がします(英国と日本は司法制度が違うのでそのまま対比はできませんが、基本的な理念は同じ)。検察は証拠捏造で、警察は強引な取調べで、国民の信頼を失いつつありますが(実に悲しいことです)、裁判所はそこまで国民の信頼を失っていないように思います。というか、誰も知らないのかもしれませんね、そのあたり(笑)。検察・警察・裁判所の違いを分かっていない方も多いような気がします。

裁判所がしっかりしていれば、検察や警察が強引なことをしようとしても、特に、社会秩序を守るために個人を犠牲にしようとしている場合でも、それを見抜いて公正な裁判をすることができます。これを信頼できるのであれば、死刑を廃止する必要はないと思います(刑罰として死刑がふさわしいかという点も問題になりますが、最高裁は問題ないといっていますし、個人的にも問題ないと思っています。ここは宗教論争になるので深入りしません)。一方、裁判所が検察の言いなりになったり、独自の社会秩序論を持ち出して個人の人権を蔑ろにするようなことがあるのであれば、裁判所に死刑という道具を持たせるのは不安でたまりませんから、死刑は廃止すべきでしょう。

いまのマスコミの報道などをみていると、検察や警察の問題ばかりが取り上げられており、裁判所が国民の信頼に値するものなのかどうか、という点については、あまり掘り下げられていないように思えます。これが、裁判所は検察や警察の言いなりだから考える必要もない、ということなのか、裁判所がやっていることは専門的すぎてよく分からない、ということなのか、裁判所を問題とすることは間違っている、ということなのか、わたしには分かりませんが…。